2920 死は生の中に
12/18-17
僅かでも刻があれば文字を刻みたい。
書き手の執念。
読んでくださるFBFの方々がいて幸福に思います。
本日㊗️退院ですが、問題課題山積です。
贅沢はできないのですが、足への負荷を考慮して笹塚までバス。
駅からワンメーターだからとタクシーを待つが捕まらずトホホの徒歩。
遊歩道では若竹保育園のチビッコ軍団と遭遇。びっこのおじさんの回りをはしゃぎ回る。
知らずに踏みつけてしまうくらい小さい。
誰かが転んで泣くと、みんな集まり慰めたり、マネして嘘泣きの子も。
なんとまあ賑やかだ。昔はガキが嫌いだったけど、今ではそれはない。
これも老化現象のひとつだろうか?
まあいい。
いずれは泣きマネのチビも死ぬ。徳川も織田も上杉もみな死んだ。
要はいつ何処で、どうやって死ぬかという問題だ。
死生観とは死を知る(悟る)ことより、生を活かす術。
若人にはわからないが、老人のみの特権ではなく意識の問題だ。
笹塚に来て20年、自宅前の遊歩道、多くの人々に出会った。
顔見知りだが、名は知らない。
挨拶、会話はするけど、素性を知る仲ではない。毎日のように会う人も中にはいる。
大抵は犬を連れた老人、ほとんどがおじいちゃんだ。
ある時期を境に違う人が同じ犬を連れて歩く。
見知りの犬は尻尾フリフリで私に寄ってくる。連れ主は危うきに近づくまいとリードを引く。
「おじいちゃん、どうかされましたか?ボク、犬トモなんです」
「ああ、そうでしたか。父はちょっと具合が悪くなりまして」
見知らぬ素通りに家族の状況をペラペラ喋る馬鹿もいない。
やがて犬たちもフェイドアウトして跡形も無く姿をけす。5年にひとりくらい。
あのじいちゃんとあのじいちゃんと・・・。
名も知らぬが深く刻まれた優しそうな皺だけは覚えている。
何より犬たちがじいちゃんたちになついていた。
遊歩道には掃いても掃いても枯葉が舞う。カサコソカサコソ。
山本コータローの「岬めぐり」より、死にたくなるような「落ち葉の舗道」が好きです。
最後の一葉ではないけれど、人の生命はこの枯れた葉のようなもの。
いつかはみな、おじいちゃんのようにフェイドアウト。
FBFの海貝真珠ルビーさんの上海のご友人の医師が、60歳を前にして東京に開院するという。
その医師の言葉を海貝さんから聞いた。「ボクの人生は60歳から」
もちろん私もまだ5回裏の攻撃中。
高木守道監督は5回を終了して3点差がつくと、もうゲームを投げたそうだか、ゲームセットまでに手を抜くと、鉄拳制裁が待つ星野仙一監督でありたい。