少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

3071 太田道灌と江戸城

4/16-18

FBFのみなさま、おはようございます。
私はひとつのことに疑念を抱くと執着して、そこから抜け出せないクセがあります。

過日、投稿させていただきました「時空」もそのうちのひとつです。現在、秩父宮殿下とラグビーの関わりについて調べていますが、これは想像以上に深い相関関係で繋がり、その枝葉を辿るとスペクタル(壮観)になります。

秩父宮殿下を中心とした糸の絡まりを、一本一本解すと、ペリー、明治天皇大正天皇昭和天皇、徳川家、原敬(総理大臣)、香山蕃(日本ラグビー協会会長)、北島忠治(関東ラグビー協会会長)、太田道灌江戸城・・・と、最の果てなく続き、いくら時間があっても足りなくなるのです。

今、私はこの杉並区和田にある宗教法人立正佼成会付属佼成病院5階、東側の窓から副都心を眺望しているのですが、江戸から幕末にかけての江戸の記憶を、資料をもとに、脳裏で遡る作業に没頭しています。

もの知りを気取る私ですが、ひとつ、とんでもない勘違いというか無知を知りました。江戸城です。
江戸城の築城は太田道灌によるものだという認識は正解でした。太田の土管屋と記憶していたので、ドカンを見るたびにドカン=太田道灌江戸城という連想は染み着きました。

問題は施工依頼主ですが、私はてっきり徳川家康だとばかり、これまでずっと思っていたのですが、大いなる勘違いでした。本当に恥ずかしいことです。

もとの住人は江戸重継。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武家であり、江戸重継の居館が、後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたそうです。もちろん、この時点では、まだ城ではなく居館の範疇。されど、江戸という地名の由来は江戸重継によるもので、長年、この地で暮らしながら、そんな事実も知らなかったとは末代までの恥、親父は教えてくれませんでした。

築城に至ったのは、15世紀。関東武蔵國の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝が家臣である太田道灌に命じ、享徳の乱に際して康正3年(1457年)に江戸城を築城したのです。

太田道灌は武蔵國秩父宮にもいくつかの建造物を残しています。だいぶ端折りますが、ここで秩父宮殿下と時空を超えた糸で結ばれているというのが私の推理であり、その証拠を探す作業に没頭しているのです。

そして上杉持朝による築城こそが、徳川幕府の公文書である『徳川実紀』に、これこそが江戸城のはじまりであると記されているのです。江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城であったとあります。

そこからかなりまた端折りますが、太田道灌江戸城の実質的な住人であり、上杉家の管理者であったのですが、戦国時代の武家にはつきものである跡目争いに巻き込まれ、太田道灌は親戚筋であるはずの上杉定正に暗殺されました。これが江戸城の乱。

太田道灌殺害後、江戸城は上杉氏が所有し、上杉朝良が隠居城とし あしたが、その後大永4年(1524年)今度は、北条氏綱が扇谷上杉氏を攻め、北条氏が江戸城を乗っ取ったのです。
当時、野っ原にポツンとあった江戸城が人気の理由は、品川湊、六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があり、関東内陸部から古利根川・元荒川・隅田川(当時は入間川下流)を経て品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしていたからだったのです。

太田道灌による江戸城築城から133年、北条氏の乗っ取りから66年後の天正18年(1590年)、アタマに来た豊臣秀吉が北条氏の小田原城を攻め、これが有名な兵糧攻めで、北条氏を撲滅。秀吉は、功労者である家康に、北条氏旧領の関八州を与えました。秀吉はただの野っ原だと、当時の関東平野はクズ同然とタカを括ったいましたが、これが実は天下の分かれ道となりました。

秀吉を擁護するわけではありませんが、当時、政の中心は京都であり、商の中心は大阪、堺であったことからすれば、関東平野など二束三文。秀吉からすれば、残飯を恵んでやったくらいのつもりだったと想像できます。が、後に家康による江戸バブルが始まるのです。

1590年8月30日、家康は引越しのサカイに電話を入れると、すかさず駿府(静岡)から江戸にお引っ越し。豊田市より引き連れた岡田建築の岡田トヨジに命令して、築城から時を経て荒れ果てた江戸城 改築修繕作業にあたらせた。

実は当時の江戸の人口を調べることが、この原稿のそもそもの作業であったけど、そのアンサーがようやく出る。
「茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった、とされる」
実はこの部分だけ知りたかったのです。

さらに江戸城の東は低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水がさしこむ茅原であった。これが日本橋界隈。
南に行けば日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州があらわれていた。この辺りが銀座、汐留界隈か。
そして、今まさに私が居る宗教病院は、西南の台地であり、ススキやら背高泡立草の野原が果てしなく続く原生林。たかだか400数十年前の時空の差である。タダでも要らない土地が、今では坪単価200万円前後とはね。

というわけでは家康は江戸城では3番目の家主。それも朽ち果てていたボロ屋をトヨジに改築させたというわけです。みなさんの周りにある、朽ち果ててたタダ同然の民家がありましたら教えてください。トヨジ連れて行きます。400年後が楽しみです。

本日もついてる、感謝してます。

追伸

さっき思い出したのですが、太田道灌は排水溝や水路の知識に長けていました。安藤式記憶術を思い出したので、受験生諸君にプレゼントです。

「道灌はドカンの名人 江戸城築城」
「道灌はドカンの名人江戸城築城」

ところが道灌の灌という字が書けませんでした。

おしまい