少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

3726 透析問題4

3/21/19

第一章 繋がった命の電波

・奇跡の波動(5)

しかし、ここから杉浦の交渉能力の高さが苦境に光を導いた。交渉開始から一時間、現場の責任者に粘り強く状況を説明し、厳しい条件付きではあるが残りの一席を今村のために確保したのだ。
 23階の医局でやきもきする私と、すでに東京駅地下3階から成田エクスプレスに乗車した移動中の今村と、航空会社と交渉を続ける杉浦と、トライアングルもしくはスクエアで連絡を取り続けた。と、同時にもうひとつやらなければならない重大な作業がある。移植費用の準備だ。ぶらり途中下車気分で汽車に乗り、パスポートを取りに来ただけの今村が1000万円近い大金を持ち歩くわけもなく、資金は当然、銀行に預けてある。一分一秒を争う今村に銀行に寄る余裕など到底ないし、通帳や印鑑も持ち歩かないだろう。キャッシュカードで降ろせる限度額は一日一回で50万円まで。ATMに立ち寄る時間さえもなければ50万円では意味も無い。
 成田エクスプレスの車中から今村が自宅の夫人に電話を入れ、夫人をすぐに銀行に走らせ、預金を降ろすように指示はした。しかし今度は、その大金を誰が中国まで持ってくるのか、という問題が発生した。翌日でよければ杉浦が動く。しかし、病院の厳しい規定により100%前金が原則でそれが出来ぬ場合は手術は延期となる。重度の腎臓病患者が大変な思いをして中国まで来て、時間の差で資金が間に合わず手術が見送られる。そんな最悪なシナリオだけはなんとしても避けなければならない。現場は現場でN医師が、もし最悪、資金が間に合わない場合、明日必ず支払う特例を認めて欲しいと何度も何度も病院経営側に掛け合ってくれた。しかし、返答は無情にして不可能だと断裁された。私が個人で立て替えるには遠く及ばない額、海外臓器移植をサポートする米国財団のプール金をもってしても及ばない額であった。

そうこうしている間に「安藤さん、あと20分で成田に着きます。どうしたらよろしいですか?」と今村から指示を要請する電話が入った。ここから先は、航空会社と交渉を続ける杉浦にバトンをタッチした。
 杉浦が航空会社より得た条件は、出航予定時間の二十分前、つまり15:10がタイムリミット。それまでに中国南方航空のカウンターに今村が到着すること。もし一分でも間に合わなかった場合はコンピュータをクローズするため搭乗は諦めて欲しいとのこと。事情が事情なのでキャンセル料などのペナルティーは免除するが、もしキャンセル待ちの乗客がいた場合、15:10のタイミングでリザーブを解除し、キャンセル待ちの客に座席の権利を移行するというものだった。
 杉浦はネットで、今村の乗車している車両からカウンターまでの最短ルートを調べ、携帯で細かく今村に道案内をした。しかし、今村は腎不全を患う重症患者ゆえ健常者のように一定の速度で歩けるわけではない。急遽決まった人生の岐路に、東京―成田間わずか七十分の成田エクスプレスの車内で、複雑な思いや不安、煩雑な事務手続きの心配などあらゆる気持ちを整理しなければならなかったであろう。他の誰よりも辛く、そして勇気ある選択の覇者として搭乗してもらいたい、いや搭乗させなければならなかった。
 しかし、人生には無情がつきものである。杉浦が漕ぎ着けた約束の15:10を過ぎても約束の地に今村の姿を確認することはできなかった。今村の命を刻む時計の針は止まることなく15:10を何も言わずに通過した。

 自ら、移植支援財団のスタッフを有能だと評価するにはいささかの照れがある。だが、杉浦千里の描いたアルゴリズム、つまり、今村を15:30発中国南方航空CZ315便に搭乗させるための問題解決のためのプログラミングは一分の隙もないほどまでに完璧だった。唯一、問題が発生するとしたら成田エクスプレスの遅延だけで、速く歩くことができない今村の体力や歩速も、杉浦の描いたアルゴリズムには想定されていた。しかし、今村の歩速が未知数で、希望的観測を描いた杉浦のプログラミングよりわずか数分のずれがあった。だが、これはもう神のみぞ知る領域で人智では計測不可能な領域であった。
 中国南方航空のカウンタースタッフらも時計とにらめっこが続き、地上アテンダントが搭乗ゲートのスタッフらとオンタイムで激しくやり取りを続けていた。「一分でも遅れたら、コンピュータをクローズします」とは言ったものの、杉浦の必死さが担当者に通じたのか、約束の時刻から三分経過してもスタッフの手によってコンピュータが切断されることはなかった。「あと二分だけ待とう。それが限界だ」。スタッフリーダーの判断に誰も反対する者などいなかった。それどころか、今村のために車椅子まで用意されて、あとは今村がクレジットカードとパスポートさえ提示すれば搭乗に間に合うように手配されていた。