少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

6264 フォークボールの神様

6/22/21

fa30y(6/22/21) 6:22起床 w不測定

 本日は午前より夕刻までYouTube(ビリケンチャンネル)の撮影をしました。テーマを明確にして、3本撮りしました。乞うご期待です。
 羽鳥慎一のモーニングショーでそもそも玉川さんが言ってました。
「結局、国民がどんなに反対しようが、医療関係者、専門家が提言しようが、結局は菅総理や実行委員会の予定通り、やりたいような五輪開催になるわけですよ。で、残された我々や国民の皆さんが感じるのは『無力感』だけなんですね」

『無力感』本当にその通りだ。いろんな人々が、いたるところで、五輪の開催について、考えたり、論議したり、文句言ったりしてるけど、結局何も変わらない。キャツラのやりたい放題である。我々は檻の中から叫んでいるだけ。この鉄格子の向こうで、恋人が五輪貴族らによって輪姦されているもを叫んで見るほかない。その鉄格子は菅であり丸川であり橋本であり森であり。みんな高額なゼニで雇われてるし、自分の恋人じゃないから、高みの見物である。

上級国民、いまだに自分の過失を認めない飯塚被告。被害者母子の名前を漢字で書けないとは、もうこれだけで反省も何もない。罪なき遺族は一生苦役を背負い生きていく。母子はもう暖かいスープも冷たい水の一杯も飲めないのに、加害者は自宅で晩餐に舌鼓をうつ。せめて最期の生の時間は獄中で冷や飯を喰いながら反省するとかできんのか。

どことなく、五輪問題とリンクして、これもまた『無力感』に苛まれる。

杉下茂

言わずと知れたフォークボールの神様。
ウルトラ警備隊の管理地区に在住。明大先輩。

 1925年9月17日 、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区)生まれ、現在95歳。
 日本プロ野球史上初の本格的なフォークボーラーとされ、驚異的な変化の切れ味と落差を誇るフォークボールを自在に操り日本球界に絶大な影響を与えた。史上初の沢村栄治賞3回受賞者。また、史上4人目・セ・リーグ初の投手5冠を達成した。

 今日はプロ入り前の話。

 杉下家の本家は岐阜の郡上八幡だが、実家は大きな中華料理屋で、茂は父親が50歳の時に生まれた。茂にとって父親は身体を壊して寝込んでいる印象しかないが、野球好きで、寝床にいながら東京六大学野球の試合をラジオで聞きつつスコアブックを付けていた。また母は野球好きではなかったが、日曜日には弁当を持って神宮球場へ連れて行った。茂が2~3歳の頃に一家は父親の職場がある中央区新川へ転居したが、その際にグローブとミットを買ってもらい、明正小学校低学年の頃に3歳上の兄とキャッチボールを始めた。当初は兄が投手、茂が捕手でプレーしていたが、茂は「本当は投手が良かったが弟だから仕方ない」として諦めていたという。

 4年生の2月に父親が病没すると神田区(現:千代田区)神田へ転居し、錦華小学校へ転校した。錦華小学校は神田区では区大会で負けなしの強豪で、4~5歳年上の仲間に混ざってプレーしていたところを野球部へ勧誘された。初の試合のみ捕手を務め、2試合目から投手としてプレーする。
 旧制帝京商業学校野球部に進学し、監督だった天知俊一の元で4番・一塁手としてプレーした。長身を生かして投手として登板することもあったが当時は弱肩で、守備時の送球は下手投げに近い横手投げだった。
 1944年3月に卒業後12月25日に入隊し、野球経験者という理由だけで中隊対抗の手榴弾投げ競争の代表選手に選ばれた。そのために弱肩を言い出せず、投球フォームを上手投げに矯正して必死に遠投を練習した結果、肩が強くなって優勝した。
 1945年には中国に出征し、同年3月21日に海軍に所属していた兄・安佑が特攻隊として沖縄方面へ出撃して戦死し、少佐に二階級特進となった。終戦後は杉下自身も捕虜収容所に入れられ市中引きずり回しまでさせられたが、井戸水の上澄みだけを飲むようにしたことが功を奏し生き延び1946年1月に帰国した。

 復員後は社会人野球のいすゞ自動車へ入社し、当時監督だった苅田久徳によって本格的に投手として起用される。同時期に存在したプロ野球大和軍」が消滅したため、苅田自身や高橋吉雄らが加入して「いすゞ自動車硬式野球部」として本格的に活動を開始した。初の対外試合は日本コロムビア戦で、苅田から投手で起用されるといきなりノーヒットノーランを達成。その際の球審は奇しくも天知で、病気療養の弱肩投手から強肩速球派投手に進化していた杉下に驚愕した。

 第二次世界大戦で中断していた東京六大学野球リーグが1946年春に再開されると、杉下は野球を続けるために都市対抗野球終了後にいすゞ自動車を退社し、明治大学旧制専門部へ入学した。監督の苅田が法政大学出身だったために、杉下へ「都市対抗が終わったら法政に入れ」と言っていたが断り、杉下の入学に関して、明大出身の天知は一切関与していないという。

 明大監督だった八十川胖の指導で練習を行うがその練習は熾烈なもので、午前中に下手投げで300球近くを投げ込んだ後に、スイトンのみの昼食を挟み、打撃練習のため上手投げ連続2時間登板、その後、夜にも投球練習があり、一日1500球も投げ込んだという。また、杉下が天知の教え子と聞くや、杉下が一塁手をやっていたらしいというだけで一塁でノックを受けさせたほどである。

 大学卒業直前の1948年正月、岡山県琴浦商業学校に投手として在籍していた東谷夏樹ナックルボールを教えていた杉下を見かけた天知から、「『フォークボール』というものがある」と教えられる。しかし、試合で初めて投じた1球目が当たり損ないの安打になったことで縁起の悪さを嫌い、すぐに封印してしまった。封印後も八十川から吐くほどにまで投球練習をさせられてついに肩を壊したが、杉下は「残念だったのは在学中に一度もリーグ戦で優勝できなかったこと」と述べている。

明日はプロ入り後です。

 本日は夕方にジム30分。その後に新宿。写真は新宿駅西口の夕焼け。

本日もついてる 感謝してます。

少数派日記21

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