少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

6241 兆治入団

6/14/21

fa30y(06/14/21) w918

本日より早朝ジム16クール、皆勤。おお、体重が初めて92㌔を切りましたぞ。土日はノートレーニングだったにもかかわらず、アーユルベーダの先生の約束守ってチョコと柿ピー抜き一週間、ええぞええぞ。

 明大ラグビー部OBの黒崎品川区議のリポートによると、聖地・秩父宮ラグビー場の天然芝の上に、ダイレクトに鉄板が嵌められ、溶接されているという。五輪の駐車場にするらしい。ふざけている。言語道断だ。

 終戦直後、日本ラグビーの功労者であり、東大ラグビー部の創設者の香山藩先生、北島忠治先生ら多くのラグビー関係者が喰うや食わずの中、私財を持ち寄って血と肉で作った聖地を、国民が大反対する運動会の駐車場に利用するとは、それこそスポーツを冒涜する行為としか言いようがない。

 こんな味噌糞連中が土足で踏み荒らす場所ではないのだ。国技館の土俵にハイヒールで上がるのと同じ行為。あの美しい天然芝が死んでしまう。松ちゃんを先頭にしてバリケード組むなら喜んで参加させてもらいまっせ。

 というわけで超人・村田兆治さん。

村田 兆治 1949年11月27日 、広島県豊田郡本郷町(現・三原市)生まれ、71歳。

 小5のとき、父に連れられて広島市民球場へナイター観戦した時、鳥肌が立つほど興奮し、それ以来、プロ野球選手以外の将来は考えられなくなった。
 これはおそらく、ドーム球場では得られない、昭和ならではの感覚だったと思う。テーマパークとは違う生身の人間が、カクテル光線の中で光り輝く、夢が現実へと向かう世界だったのだ。

 福山電波工業高校(現:近畿大学附属広島高等学校福山校)時代から、村田の球は速くて重い。スピードガンがあれば有に152、153 km/hをマークしていた。1年上には浅野啓司がおり、2年生の秋からエースとなった。しかし当時の広島県には、山本和行を擁する広島商、大田垣耕造のいた尾道商、1967年に夏の甲子園準優勝を果たした広陵など強豪がひしめいており、厳しい競争が続く。1966年秋季中国大会県予選で準々決勝に進出するものの広陵高に惜敗、翌年夏の県予選でも3回戦で呉港高校に敗れ、甲子園出場の悲願は叶わなかった。しかし、広島カープの木庭教スカウトから間接的に「ドラフト1位で指名する」と伝えられていたため、カープに入れると喜んでいた。
 ところが、誰を指名するか決めかねていた東京オリオンズ濃人渉監督が、植村義信投手コーチを呼び「お前が決めろ」と一任し、植村が映像を観て、肩の強さや体の柔らかさから村田を指名した。この年1967年第3回ドラフトは、予備抽選で指名順位を決め、1番くじを引いた球団から順に1人ずつ指名していく方式で、広島は12番目。6番くじを引いた東京オリオンズ村田兆治を1位に指名した。

 背番号はエースナンバーの「18」を希望するも、叶わず「29」となったが、この「29」番が後に村田の代名詞となっていく。
 1年目の1968年は振るわなかった。当時はドラフト1位の契約金を持て余し、パチンコや麻雀など遊びに明け暮れていた。そのようなある日、徹夜の麻雀を終えて独身寮に朝帰りして来た時、日課ロードワークに出発しようとしていた小山正明と鉢合わせになる。その時既にベテランだった小山が、若手の自分よりも遥かに厳しい練習を自分に課していることに衝撃を受け、そのまま逃げるように自分の部屋に帰ってしまった。

 その後、練習中に小山に謝りに行ったところ、「お前ほどの才能がありながら、それを無駄にするのはさびしくないか」と諭された。球界を代表する大投手からの叱咤激励に感激した村田は、以降別人のように練習に打ち込むようになった。村田の若手時代のロッテには小山以外にも成田文男、木樽正明、坂井勝二、金田留広と名投手がおり、村田は彼らから投球術を学んでいった。

 球団名がロッテとなった2年目の1969年に頭角を現し、6勝(そのうち5勝は完封)を挙げる。1970年にはリーグ優勝を経験、1971年、金田正一監督のアドバイスを元に投球フォームを大幅に改造し、後に村田の代名詞となる「マサカリ投法」の原型を編み出した。同年は12勝を挙げて先発ローテーションの一角に食い込み、1974年のロッテのリーグ優勝の際にも大車輪の活躍を見せた。

 中日との日本シリーズでは4試合に登板。第1戦では9回裏に抑えとして登板するが、高木守道に逆転サヨナラ二塁打を喫する。第2戦、第4戦は抑えとして勝利に貢献し、第4戦では前日の鈴木孝政(中日)に続いて「ロッテ・オリオンズ」の選手としてシリーズ初セーブを記録した。最終第6戦では先発し、松本幸行、星野仙一との投手戦を制し完投勝利、胴上げ投手となった。

 1976年にはフォークボールを習得する。人並み外れた長い指が生み出す切れ味鋭い変化は、ことごとく打者のバットに空を切らせた。同年シーズンは257回を投げて21勝を挙げると同時に、防御率1.82で最優秀防御率のタイトルを獲得。202奪三振もリーグ最多であった。捕手に頼らず「ノーサイン」で自分で投球を組み立てていたため、同年から1979年まで4年連続で2桁暴投を記録した。

 1979年は32試合に先発して自己最多の21完投・230奪三振を残す。1981年には開幕11連勝を飾り、19勝で最多勝のタイトルも獲得し、鈴木啓示山田久志東尾修らと共に1970年代から1980年代のパ・リーグを代表する投手となった。

 しかし、1982年に肘を故障。様々な治療法に取り組む傍ら、宮本武蔵の「五輪書」を愛読し和歌山県白浜町のお水場・十九渕で座禅を組み、深夜白衣を纏い滝に打たれるといった荒行も行っていた。また同年オフには一向に人気が向上しないロッテに対する不満からセ・リーグの人気球団である阪神への移籍を志願したものの交換要員が決まらずロッテに残留した。

 翌1983年も一向に肘の症状が改善されないため、渡米しスポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブの執刀の下、左腕の腱を右肘に移植する手術(トミー・ジョン手術)を受けた。以降2年間をリハビリに費やし、1984年シーズン終盤に復帰する。

 1985年、開幕から11連勝(うち、4月14日から5月26日まで日曜日7連勝)を挙げるという鮮烈な復活劇を見せ、最終的に17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞。前年に続くロッテのリーグ2位に貢献した。この年の開幕からの11連戦11連勝記録はプロ野球記録である。同年から、中6日で日曜日のみに登板する先発ローテーションを取るようになったため、「サンデー兆治」とも呼ばれるようになった。

 当時、中6日で登板する先発投手は、他には同年に台頭した郭泰源くらいしか見当たらず、郭とともに中6日ローテの先駆的存在にもなった。また日本球界では長年、投手の肘にメスを入れることはタブーとされていたが、村田の復活によって有効な治療法として認識されることになった。

 1989年5月13日、対日本ハム戦(山形県野球場)で通算200勝を達成。200勝に王手をかけていた4月16日の対近鉄戦(川崎球場)では延長11回を投げ切りながら敗戦投手になったが、その試合を「〇曜ナイター」が試合終了まで中継し、本来「笑点」が放送される17:20 - 17:39の時間帯の視聴率はその日の夜の巨人-大洋戦を上回る22.4%(関東地区)を記録した(全体では10.9%)。
 同年、39歳にして3回目の最優秀防御率のタイトルを獲得した。

 コーチ兼任で臨んだ翌1990年10月13日、開幕戦の対オリックス・ブレーブス戦で1失点完投勝利とレギュラーシーズン最終戦の対西武ライオンズ戦で同年2度目の完封含む10勝をマークし、10度目の二桁勝利を挙げる。
 若林忠志以来史上2人目となる40歳代での二桁勝利を記録し、最終戦で引退セレモニー実施で現役引退した。
 この引退により、東京オリオンズに在籍していた選手、および60年代にプロ入りした投手が全員現役を引退した。

 凄まじい投手でした。我々、若手記者が近寄ることも許されない、刃物のようなイメージ。触れたら斬られる、みたいな。
 球数のやたら多い投手でしたが、すべて全身全霊で投げるという気迫が伝わる選手。だから近づけなかった。

 つづきます。

本日もついてる 感謝してます。

写真は本日のランチ、桜上水、山路さんのチキンカツカレー。ご飯少なめに、といったのに、完食できないボリューム580円。
夕食は、昨日の川崎球場ラーメンの残像があり東秀の素ラーメン390円。なんと千歳船橋店が本店とは。昔住んでいたのでよく行きました。今はもうないと思う。

少数派日記21

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