少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

6283 ザトペック村山実

6/27/21

fa30y(6/27/21) 7:18起床 w 945→937

 週に2度(日、月)のウルトラ警備隊が自分のメリーとハリー。日曜日に前週をおさらいして月曜日に新週の構想を練る。だが今日も激しい睡魔に襲われる。
 先週から車中でリンゼンさん殺害事件の市橋達也容疑者の2年7カ月の逃亡手記を読了する。面白いと言ってはいけない、非常に興味深かった。市橋達也が単なるサイコパスではなく、ごく普通の青年であり、心理描写の表現から優秀な頭脳の人物であることがわかった。殺人の後悔と懺悔に嘘はないと思う。殺人に至った経緯や動機には触れていないが、おそらく突発的な要素が重なり、もしかしたら、日常的に誰にでも訪れる可能性がある被害者と加害者の相関なのかも知れない、と思った。

村山実
 
 1936年(昭和11年)12月10日、兵庫県神戸市生まれ、尼崎市育ち。小学生の頃から野球を始める。投手に憧れ、投手を志望するが、身長が低いためにやらせてもらえず、内野手となる。住友学園中学校に進学し、正式に野球部に入部する。この時は二塁手だった。
 住友工業高に進学するが、野球部に監督は不在でOBが時々指導に来る程度であった。自動車会社の社員である藤田祐良が監督に就任すると、藤田は村山の地肩の強さと負けん気の強さを評価し、投手へ転向させた。
 2年生の時のある練習試合で打ち込まれ、その試合後に藤田から「お前の手のひらは大きい。つまり指が長い。だから、ボールを指にはさんで投げてみろ」と命じられる。これがフォークボールだった。
 2年からはエースとなり、秋季近畿大会県予選では準々決勝へ進むが、島田幸雄を擁する兵庫工業に敗退。3年の1954年春季近畿大会では準決勝に進むが、片岡宏雄・坂崎一彦らを擁する浪商業に、同年夏も準々決勝にて明石高にそれぞれ敗れ、甲子園出場は果たせなかった。

 村山は卒業後、野球部の同僚が立教大のセレクションを受験することになり、村山も東京六大学野球でのプレーを夢見て立教進学を希望し、同僚と一緒に大阪にて立教OBの面接を受けることになった。
 ところが、村山はその場で身長が低いことと体が華奢であることを理由にセレクションへの推薦を拒否された。もし、立教に進んでいれば、ヤクルトの元スカウトの片岡宏雄とバッテリーを組むはずだった。

 母親の「できるだけ、近くにいてほしい」との懇願と、関西大学の学生で応援団長だった次兄の勧めで、1955年に関西大学商学部商学科へ進学した。同級生に海南高校出身で捕手の上田利治がおり、上田とバッテリーを組むことになる。

 1年次はグラウンドの草刈りと水撒きの下積みに明け暮れたが、2年次の1956年に左右のエースだった法元英明と中西勝己が退部してプロ入りしたたため、村山はエースに抜擢された。
 春の関西六大学のリーグ戦で優勝し、神宮球場での第5回全日本大学選手権に出場し、西日本の大学では初の大会初優勝を達成した。村山は全試合に先発して完投し、日本大学との決勝戦でも島津四郎と投げ勝った。1球ごとに全力投球し、苦しそうな表情を浮かべながらも完投する投球する姿から、新聞が「ザトペック投法」との見出しをつけた。

 大学野球選手権大会での活躍でプロ野球界から注目を集め、ほぼ全12球団から卒業後の入団を勧誘された。ところが、3年次の1957年に右肩に激痛が走り、投球が不能となってしまう。関西大学OBで当時大阪タイガースの球団社長だった田中義一から厚生年金病院を紹介され、治療に通うことになる。右肩痛によってプロのスカウトは村山から手を引くが、タイガースの田中だけは「キミにタイガースに来てほしいからなんてケチな根性は持っとらんよ。安心していろ。キミが心配な一先輩なだけだ」と村山に対し親身になって対応した。

 村山は感激し、もし右肩痛が治ればタイガースへの入団すると決意する。4年次に、右肩の痛みは右脇の下にできていた軟骨であると判明し、除去手術をしたために治ることができた。

 村山に対しプロ球団の間で再び争奪戦が起きる。巨人は契約金2000万円を提示したが、その4分の1である500万円を提示した大阪タイガースへの入団を決定した。リハビリ中親身になって応対してくれた田中への恩義と、右肩痛に見舞われた経験からプロでの長期間のプレーに自信が持てておらず、条件提示の中に「阪神電鉄からタイガースへの出向社員とする」との辞令に魅力を感じたためである。

 プロ入り後の村山の活躍を書くスペースは無さそうだ。有名な天覧試合についてだけ少し書く。

 ルーキーイヤーの1959年4月14日の対国鉄スワローズ戦(阪神甲子園球場)で公式戦初登板・初先発を果たし、先頭の町田行彦の頭部にいきなり死球を与えるが、金田正一と投げ合って6回まで無安打に抑え、2安打完封勝利でデビューした。最終的に18勝10敗・防御率1.19の活躍で最優秀防御率のタイトルを獲得、新人ながら沢村賞も受賞したが、新人王は同年に新人新記録となる31本塁打を放ち、本塁打王のタイトルを獲得した桑田武に譲った。新人で沢村賞を受賞しながら新人王に選ばれなかった投手は2021年現在も村山ただ一人である。

 また、同年6月25日の天覧試合(後楽園球場)では先発した小山正明を救援したが、長嶋茂雄に左翼ポール際のサヨナラ本塁打を浴びた。この判定は微妙だったため、村山は生涯「あれはファールだった」と述べている。これによって「村山対長嶋」のライバル関係が出来上がり、村山は通算1500奪三振(1966年6月8日)、通算2000奪三振(1969年8月1日)をいずれも長嶋から狙って奪っている。
 ちなみに長嶋と村山はともに昭和11年生まれだが、長嶋が早生まれのため、学年では長嶋が一年上となる。
 わしらがガキの自分でも長嶋vs村山、王vs江夏の対決には心躍らせながらモノクロの画面にしがみついていた(街灯テレビの時代ではないよ)。

 数々の栄光を引っさげて村山実阪神一筋14年、うち監督兼任通算5年、通算222勝で1972年のシーズンを最後にマウンドから去った。背番号「11」阪神永久欠番である。

 その栄光から26年後の1998年8月22日、村山実は直腸癌のため神戸大学医学部附属病院でこの世を去った。享年61歳、早すぎる死を皆が悼んだ。神戸市内で行われた葬儀の後、村山の棺を乗せた霊柩車は、参列した大勢のファンの「六甲おろし」の大合唱に送られて斎場を後にした。

 本日もついてる 感謝してます。

今日も焼肉ランチ870円。朝の玄関、くーちゃんの指定席と遊歩道独り占めのくーちゃん。

少数派日記21

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