1710 杜若/幸福は本当に来るのか?
「少数派日記」の読者の方から、NO 1760 杜若〜幸福は必ず来る・・・について下記のようなご意見をいただきました。
同じように思っている読者さまも多いと思いますので、お答えしたいと思います。
ーーーーーーー以下、読者からのメールーーーーーー
杜若/幸福は必ずくる 何度も何度も繰り返し読みました。時間を置いて何度も読んだんだけど…駄目です。分からない。
杜若の部屋の方に幸福 来たと思えない。身内の方にしてみれば このままで良いからずっと一緒に居て欲しい。病院へ行けば会える。 それで幸せ。と思っていたんじゃないかな…
ーーーーーーーーー以上ーーーーーーーー
以下、安藤総理からの回答です。
それは年齢にもよります。たとえば、幼い子供なら、時として植物状態から回復するケースもままあります。
しかし、高齢者となればどうか?
肝心の本人の意向を耳元で尋ねることはできても、本人は返答できません。
さぞ、悔しいことでしょう。
そもそも、生命、天寿とは何か?
生命維持装置で繋がれている生命が本当に幸せかどうか・・・という問題になります。
「生きてさえいれば必ずいいことがある」という言葉はある意味、疑問です。
浄土ヶ浜の母はどうでしょうか・・・?毎日毎日「死にたい 死にたい」と日々積もる避難所生活での苦痛を強いられて、あの我慢強いはずの海の女がそこまで言う。「生きる地獄」より「死ぬ極楽」もあるのではないでしょうか?
生かせることが、本人にとって幸せか、自殺以外で、苦しまず亡くなることが幸せか・・・。
それは本人にしかわからない。
では、生命維持装置で生かされる本人の気持ちは・・・
寝たきり・・・
寝返りもできず、ごはんもたべれず、自分がどこにいるのか、何しているのかわからず、痛いのか、痒いのかもわからず。
ただし、聴力はあるという医学的報告がありますが、それは逆に辛いことでもあります。
本人の意志
一番大切なのは本人の意志です。
だから、生前、家族と話し合うことが正解です。
今回、脳梗塞で倒れた安藤総理の母親の場合、普段から「あたしゃ植物状態はイヤだからね」と母が、私や姉に公言しているので、病院から、その場合を尋ねられたとき、姉が即座に、延命治療をお断りしました。
モノ申せぬ、植物状態の高齢者を人工的に必要以上に延命させることが、真の幸福とは思えません。延命される本人も、長引けば経済的負担を含め、愛すればこそ、家族親族に迷惑をかけ申し訳ないと苦しみ悩むのが人情でしょう。聞きたくない声まで聞こえてくるでしょう・・・たとえば、家族が去ったあとのスタッフの本音や、笑い声とか・・・。
安らかに逝かせてあげることも、本人にとっては「幸福」というケースもあるのではないか・・・と思います。
(以上)
あんまき高校の安藤総理の卒業論文のテーマは「安楽死」でした。
高二の時に読んだ医学書に感化されました。
「自殺願望」を持つ難病患者に「死神」と呼ばれる医師が「安楽死」を依頼され、それを引き受ける。ところが、そこへ「正義」の医者が登場し、その患者を難病から救う。しかし、難病が完治したわけではなく、後遺症も残り、患者は自身の中で、以前の自分との温度差を感じ、最終的には苦しみながら「自殺」の道を選んでしまう・・・というストーリー。
それ以来、安藤総理は「安楽死」肯定派になりました。
今朝、どうしても、杜若の部屋の患者さんのことが気にかかり、安藤総理派閥の看護師さんに、個人情報が保護される範囲で尋ねました。
安藤総理「杜若の部屋の患者さん・・・って」
看護師 「はい、どうかされましたか?」
安藤総理「いなくなっちゃいましたね」
看護師 「はい、ご退院されました・・・」(病院での隠語です)
安藤総理「ああ、なるほど、そういうことね・・・。で、女性の患者さんでしたよね・・・」
看護師 「はい。お知り合いでしたか?」
安藤総理「いや、そういうわけでもないですけど。年齢的には60代後半、70歳前後でしたよね」
看護師 「ええ、そうです・・・」
やっぱり、そうでしたか。
なら、良かった。大丈夫です。その方なら、すでに覚悟を決められておられていますから未練を残すことなく、旅立たれていかれました。
その後、冒頭のメールをチェックした次第です。
読者のみなさまは、どう考えられますでしょうか?
いずれにせよ、もし、そうなった場合どうしたいか? 元気なうちに、ご家族で話し合い、互いに意志を確認し合う必要がありそうです。
では、杜若の部屋のご婦人に捧げます。
徳永英明さんで「まちぶせ」