2390 トイメン論神鋼編(平尾誠二さん追悼)
本稿は、17/02/11 神戸製鋼の平尾誠二さんの追悼として、平尾さんの神鋼時代の後輩で同じセンターのポジションを争奪した加藤尋久さん(現・青山学院ラグビー部監督)のFB投稿の転載です。ご本人の承諾を得ております。加藤さんは熊谷工ではSH堀越正巳さんと同期。それぞれ、明治と早稲田に進学し、ともに一年生からレギュラーという、ラグビーエリート。卒業後はそれぞれ、再び神鋼に進むという経歴。センターというポジションはバックスのフォワードと呼ばれ、走力というよりは突破力を要求される位置づけで、それなりの体格的重量が欲しい部署ですが、加藤さんは細身でラグビー選手としては華奢。しかし、短い時間でレギュラーを獲り、平尾神鋼を支えたプレーヤーです。
引退後は日大監督を経て、現在は青学大の監督です。
以下、FBからの全文転載。
【いも太郎】
今日、やっと感謝の言葉とお別れの言葉、そして自分自身の今後の決意表明をする事ができ、自分の中で一つの区切りをつけた。
平尾さんの元で多くの事を学び、勝負したいとの思いで神戸製鋼所への入社を決め、同じポジションとして常に背中を追い続け、多くの事を追い求めてきた。
練習では常にトイメンとして勝負するもことごとく簡単にあしらわれ、数多くの敗北感と失望感を感じさせられ自分の未熟さや身の程、下手さ加減を嫌というほど学ばせて頂いた。
地団駄を踏んでいる私に降りかかる独特の甲高い笑い声が現役を引退して20年以上経った今でも心地よく耳に残っている。
当時そんな私に付けて頂いたアダ名が
【いも太郎】
嬉しくもあり、悔しくもあり…笑
でもタックルしか出来なかった私には丁度いいアダ名だった。
得意だと思っていたパスもゼロからやり直し、求められるスキルの高さ、判断のスピード、ライン構成の違い、視点、視野の広さ、ゲームマネジメントに勝ち方…
そもそもスキル云々以前にラグビーというスポーツの物の考え方、戦い方、取り組み方全てが新鮮だった。
いや、新鮮なんてもんじゃないカルチャーショックだった。
当時の練習は週3回のみ。
たった3回しかないからこそ、「常に脳みそが汗かいてる」と思うくらいに脳と五感と第六感をフル回転させて練習に参加し、平尾さんの一挙手一投足全てを観察し、少ない機会、時間の中でできるだけ多くの物を学び、吸収しようと心掛けトイメンにチャレンジしていた。
そうでもしないと追い抜くどころか追いつく事もできないと思っていた。
私にとってとてもありがたかった事は 、平尾さんが全盛期だったという事。
そんな平尾さんを間近で見て聞いて感じて学び、トイメンとして「勝負」というチャレンジをし『抜いてやろう』、『止めてやろう』と挑み、同じポジションとして追い抜いてレギュラーポジションを獲得しようと真剣に考え挑むことのできた5年間だった。
挑んだ勝負は当然全敗…笑
ただ、指導者となった時に、指導者でいられる今だからこそ思えるのは、その経験全てが自分の財産となっているという事と、改めてコーチングされていたんだなという事。
違うポジションでチームメイトとしているのと、同じポジションで1stジャージを争うのとでは自分自身の経験値としては雲泥の差だ。
ミスターラグビーと称された平尾さんと共にプレーした5年間は、中身のとてつもない濃い至福の時間だった。きっと誰よりも数多くトイメンとして相手をし、誰よりも近くで観察、研究していたと自負している。
大きな刺激を受け、多くのものを受け継ぎ、継承し、更に良くする事が私の使命であるのかなと、2枚の集合写真を見ていて何となく思った。
50歳を目前に、また新たな課題を平尾さんから頂いた気がする。
大事な所で怪我をしたり、◯◯二世なんて期待されていた時期もあったのに先に引退したりと、ことごとく期待を裏切ってきたからこそ、今度こそ期待を裏切る事なく、世界を視野に入れた指導者として【いも太郎】からの脱却を図ろうと思う。
私の中で平尾誠二は生き続けるだろうが、きっとこの写真の様に、後ろから見守っていてくれるだろう。
だからこそ平尾さんに認めてもらえる恥ずかしくない指導者となり、現役時代は負け続けていたから指導者としての勝負では平尾さんを負かしたいと思う。
競技者としても人間としても大きく成長させていただき本当にありがとうございました。
合掌