少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

2137 安藤総理と柳沢と環八

関何某の都市伝説にハマっていたら「柳沢」が登場したので記しておきたいと思います。まずはビデオをご覧ください。


「環八の外側」「柳沢」「中島飛行機」が今回のキーワードです。


安藤総理は昭和34年8月に東京武蔵野市の日赤病院で生まれるのですが、後に移民することになる愛知県安城市では、同じころ、伊勢湾台風の影響をもろに受け、家の屋根が暴風で飛ばされ、室内にもかかわらず、豪雨の中で産まれたという同級生が畔柳くんをはじめ、複数いました。
生誕から小学校に上がる直前の6年間、安藤総理は東京都保谷市(現西東京市)の柳沢団地で、ご幼少期を過ごします。
昭和30年代に、東京の郊外で次々と建築された、当時はモダンな集合住宅です。11号棟の101号でした。この2DKで、両親、姉、祖母とウサギと文鳥とで暮らしました。父親は、ここから千駄ヶ谷の会社まで、壊れた自転車を片道一時間以上もかけて通勤していました。


後に、社会人となり、東京で山形出身のYURIと出会い、婚約するのですが、彼女が暮らしていたマンションが偶然にも、武蔵野日赤の眼と鼻の先でした。
結局、YURIとは縁がなく結婚には至りませんでした。その後、彼女は33歳の若さで夭折されました。


ショッカー様と出会ったのは渋谷の気功教室でしたが、彼女は東京都清瀬市の出身で、柳沢からは車で20分ほどの距離です。世田谷の自宅から、彼女の実家に行くには、青梅街道を通るのですが、その際には、柳沢団地が通過点にあります。これも何かの縁でしょうか?


柳沢団地は公団住宅ですので、入居には審査と抽選が必要です。
当時はエレベータ無しの4階建て。今では、新しく高層に立て替えられましたが、そこへ行くと、懐かしい匂いがして、当時の想い出がめくりめきます。


安藤総理が33歳の時、はじめて建てた家が世田谷区の千歳船橋。築地にある会社から、深夜、タクシーで帰るのですが、一万円を超えると、経理がうるさいので、一万円以内で帰れる範囲ということで、環八の内側で物件を探しました。希望はズバリ、30坪で5000万円以内。当時は、まだバブルの残り香が漂い、「そんな安い土地あるわけないやろ」とおよそ200軒回った不動産屋では門前払い状態でしたが、明大前で飛び込んだ「飛鳥ホーム」の鈴木社長が、正味30坪4200万円の土地を見つけてくれたので即契約しました。


そこは環八の内側で小田急線・千歳船橋駅から徒歩5分。明大八幡山グラウンドまで徒歩10分の好立地。前の持ち主は、新宿税務署の元所長で、4年間ほど1億3800万円の強気価格で粘っていたそうですが、急に弱気になって、3分の1以下の金額で手放し、情報が出た日に安藤総理が押えました。


以下をクリックすると「頸城建設」のHPになります。
クリックすると、安藤総理の千歳船橋邸が出ています。「世田谷の家」というのが2つありますが、モノクロ写真の方です。これは週刊新潮の「マイホーム」で紹介されたものです。チャミーもちゃっかり映っています。ご興味ある方はどうぞ。
http://www.kubikikensetu.com/work.html