少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

4521 203高地と女子大生

6/24/19

FBFのみなさまおはようございます。

今から116年前、明治37年に勃発した日露戦争における、中国・旅順港のロシア軍基地を奪取する二百三高地について執筆中です。太平洋戦争が親父の代なら、日露戦争は爺ちゃんの代。遠い遠い関ヶ原の代ではなくごく身近な時代です。

執筆にあたり『三八式歩兵銃 日本陸軍の七十五周年』(加登川幸太郎著) 『肉弾』『銃後』(共に 桜井忠温著)『兵士の日露戦争従軍日誌』(同志社法學會) 『戦場 学んだこと伝えたいこと』(長嶺秀雄著 並木書房)その他複数の文献をかいつまんで参考にさせていただきました。

資料をめくるごとに指が重くなる想いです。実写は死体の山ばかりで掲載不能です。殺戮の現場となった二百三高地(旅順にある海抜203mの高台)の石を割ると、いまでもその石の中から戦死した兵士の血が流れ出ると言われています。

さて本題です。
FBF校條さんの投稿、「日本のいちばん長い日」の著者、半藤一利氏の話から抜粋です。

「この前、3ヵ月だけ女子大で講義をしたんです。そのとき、アンケートをとります、と4択問題を出した。
『太平洋戦争において、日本と戦争をしなかった国は? ①アメリカ ②ドイツ ③旧ソ連 ④オーストラリア』
そうしたら、50人中実に13人がアメリカと答えた。次の週に、『僕の授業を聞いてるのに、君たち13人はふざけてるのかね?』と聞いたら、大真面目だと言う。しかもその一人が手を挙げてこう言った。
『で、どっちが勝ったんですか?』
こうやって話していると笑い話のように聞こえますが、決して笑い話じゃない。これから来る令和の時代って、きっとこういう時代なんですよ」
ー以上

同じような話を聞いたことがあります。
東欧の小学生の、やはり15%くらいだったと記憶しています。
日本がアメリカに原爆を投下したのだと答えたこの割合です。

カマスコミのバラエティ漬けと、無能文科省におけるゆとり狂育が、先人たちの尽國における生命や魂、平和を願いながら死した数多の人々の想いを踏み躙り、無かったことにしようと、強力な消しゴムで洗脳に躍起になっている。

他者の肉体的な痛みは、自身が体験して初めて気付くもの。されど、戦死者の痛みは永久にわからない。だからこそ、せめて遺された我々が知る努力と哀悼の気を持つことは、この国に住む以上は当たり前のこととして認識されたい。

13人の女子大生が馬鹿なのではなく、それを伝えきれなかった我々世代の責任でもある。うちにいる2人の女子大生は大丈夫か?自身の体調より不安が募る。今日は雨。

それでも、ついてる 感謝しています。

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コメント

エイジさん「お疲れ様です。うちのご先祖様が靖国へ行ってしまった戦争を執筆中なんですね。
色々思う所はありますが、戦争の悲惨さは後世に伝えないといけないと思います」

裏「Eiji Sawaki さんその通りだと思います。お爺さんの所属した小隊とかわかりますか?」

エイジさん「安藤さん   お爺ちゃんの兄弟が日清日露で戦死したと聞いてるだけなので詳細は分からないんです」

リョウイチさん「ぜひ後世へ伝えへください。私は身内へ伝えます。シェアさせてください」

裏「大原 良一 さん   ありがとうございます。よろしくお願い申し上げます」

 

ミユキ姐「じい様、将校だった時だ!」

裏「Miyuki Nishino    所属わかれば教えてください   第七師団旭川連隊を書いています」

 

マサアキさん「安藤 貴樹 さん、乃木第3軍の第7師団ですね!最強の北鎮部隊。大迫中将」

裏「横尾 正明 さん   すごい、なんで知ってるのですか?実は北島先生の父君が第七師団に所属して二百三高地で戦死されました。

午前7時、第7師団長大迫尚敏中将が高崎山の第1師団司令部に到着し、203高地攻撃の指揮権を継承した。大迫は第7師団と第1師団の残存兵力で攻撃部署を決める。

ところが、第七師団は北鎮部隊と呼ばれたのは事実ですが、最強ではありませんでした。内地から来た一般歩兵が北海道を防衛するという意味で道民から北鎮部隊と敬称されていましたが、実は殆どが物資支援などの後方予備軍として本格的な軍事訓練は行なっておらず、職業軍人ではなく3年の義務的な民間軍人だったのです。

乃木大将も、第七師団は新人部隊という位置付けで最後まで投入をためらいましたが、背後からバルチック艦隊が迫り、挟み撃ちの危機を感じ玉砕覚悟で第七師団を投入。結果として第七師団は5日間の交戦で5000人の戦死者を出しました。この中のひとりが北島先生の父君です」

マサアキ「安藤 貴樹 「歴史群像」「歴史街道」は必読書でした。他の人の評価は別として 乃木希典は私が1番好きな軍人です。映画の「203高地」ラストの乃木が明治天皇に上奏するシーン 泣けます。乃木大将の後に学習院院員長になった大迫中将(大学)も大好きです。北島先生のお父様そうだったんですね、聞いてませんでした。いまでも北の守りの旭川駐屯地、10式戦車。たしか史料館あるらしいですね」

裏「横尾 正明   資料館は軍命令の廃棄から資料を守った方が寄贈されたもので貴重な軍事資料です。
ぜひ漁ってみたいです。大迫中尉は1912年から学習院院長で、ここに10歳になる秩父宮殿下が在籍されたと思われます。
北島先生は安塚から陸軍中央幼年学校を目指し上京したとのこと。もし、それが実現したならば、のちにラグビーを通して深い関係になる一歳年下の秩父宮殿下と、学習院から幼年学校に転校された殿下は同窓になっていました」

マサアキ「安藤 貴樹 凄い縁ですね」

 

マサノリさん「近代史を全然教えてないからね。特に昭和史。常識が常識でなくなる」

裏「山本 正則 反戦教育したいなら、戦争の手記一冊でいいから読む事を必須にすればいいです。
戦後人間が100を語るより、体験者の手記の方が遥かに説得力があるし」

裏「二〇三高地の石を割ったら血が出るという。まさか血も出まいが二〇三高地は彼我の兵二万人の死傷者を作ったところで、全山血に浮いたのであるから、石から血も出そうな筈である。
 十一月二十六日より十二月六日に至る間、即ち第三回総攻撃の大部分は主として二〇三高地の戦闘であった……。二〇三高地は戦闘後死骸の後片付をするのに手のつけようが無かったそうである。
 麓から死骸を引き抜くと、ズルズル山の上から死骸が下ってきたというようなこともあったのが二〇三高地である……敵の堡塁が爆発しては我兵もその土砂をひっかぶり、幾千となく地中に埋まり、爆発しては埋まり、何回となくひっくり返したので山の底まで死骸がつまっているわけである。
 一雨毎にコロコロ、骨が出てくるのもそれがためだ。
 二〇三高地の墓場にはこれから何年たっても日露の勇士の骨が盡きてなくなることはあるまい。
 帽子や外套の布さえ、七年後の今日でもまだ昔のままである……

桜井忠温著 「銃後」より」