6/6/21
fa30y (06/06/21) 6:23起床 W不測定
本日はウルトラ警備隊、ジムなし。
津田恒実・・・
昭和35年8月1日、山口県新南陽市で生誕。
平成5年7月20日、病没。享年32歳。
偶然に偶然が重なり、さらに偶然が重なり昭和62年12月1日、晃代(てるよ)夫人と結婚。前年、シーズン中の9月、実母(立子さん)死去。
63年10月16日、長男・大毅くん誕生。
平成3年、シーズン開幕直後に病気が発覚。シーズン終了後に引退。闘病に専念する。
以下は津田晃代夫人の著作『最後のストライク』(津田恒実と生きた2年3カ月=勁文社)より抜粋。
「ねえ、津田さんはどこを守ってるんですか?」
「お前、本当に俺のこと知らんのか?広島にもまだ俺のこと知らんヤツがおるんかぁ。俺もまだまだじゃの・・・。ピッチャーだよ」
私はこのときはじめて彼が新人王をとったこと、その年期待されている選手であることを教えられて知ったのだった。
(注=晃代夫人は津田選手を2軍の選手だと思い込んでいた)
「テル、足がくやしくて眠れん」
主人が頻繁にこう訴えるようになったのは、平成2年12月に入ってからだ。
(注=足がくやしい=山口弁でだるくてじっとしていられない状態)
「足をたたいてくれ」と言われて、ときには主人が眠りにつくまでたたいたりゆすったりしたこともあった。
(注=これが発病の兆しらしい。その後、練習中に送球を避けきれず怪我をしたり、北別府邸の新築祝いに訪れるも、体調不良で倒れたり、激しい頭痛が続く)
「テルゥ、俺、最近、からだが思うように動かんのじゃ。左右に振られたトスボールをキャッチするんがあるやろ。わかる?あんなんでもよ、昔はパッと動けたのに、最近気持ちばっかり先行って足がついてこんのじゃ。俺も年ひろうたんかのぉ」
いつもなら、からだに異常があれば、どんなに忙しくても時間を作って治療に行ってた人が、オープン戦のころから再三、病院へ行くよう、山崎隆造さんに勧められていたにもかかわらず、病院へ足を運ばなかったのは、病名を確かめるのが恐かったからなのかも知れない。
4月14日(平成3年)頭痛はさらにひどくなっているようだった。
「ねぇ、きょうは休んだ方がいいよ。そんな調子じゃ試合にも出られないでしょ。球団には私が電話するから」
「そういうわけにはいかないんだよ」
対巨人戦。試合は1点を争う緊迫したゲームになってしまった。
カープが1点をリードした八回に「ピッチャー津田」のアナウンスが流れてしまった。長引く頭痛で主人は集中力を失っていた。アップで映し出された主人の顔を見た瞬間、それはすぐにわかった。
注=投球内容は被安打2、与死球1、失点1。1死も取れず敗戦投手に。これが津田投手の一軍公式戦、最後のマウンドになってしまった。
時間の都合で本日はここまでとさせていただきます。
また、機会を見て続きを書きたいと思います。
今、生きていること、ただそれだけに感謝しましょう。
本日もついてる、感謝してます。
少数派日記21