少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

6232 アンネ92歳の誕生日

6/12/21

fa30y(06/12/21) 6:49起床 w未測定。

 午前、伝票整理。これは2万円くらいになるので気合いを入れる。〜から〜の宗教病院。足の検査。担当医、回復に驚く。今後の方針に。もちろん、まだ油断ならない。

 三島由紀夫研究の第一人者、犬塚先生と面談。短い時間でしたが、当方の情報提供に感激してくれました。次回も会う。

 バスで渋谷まで。大渋滞&恐ろしい人流。
アーユルベーダの先生に医療報告と今後のアドバイス、というか禁止事項の徹底を確認。つまり規則正しい人間的な生活の徹底。

 きょう、6月12日はアンネ・フランクの生誕日。

アンネ・フランク(アンネリース・マリー・フランク、ドイツ語: Annelies Marie Frank De-Annelies_Marie_Anne_Frank)
 1929年6月12日 - 1945年3月上旬)ユダヤ系ドイツ人の少女である。

1929年といえば昭和4年。つまり私の老母と同じ歳。存命ならば、92歳の誕生日である。享年は15歳。

 私がアウシュビッツに強い望郷の念にかられる理由は、きっとアンネの日記を子供時代ではなく、大人になってから読んだからだと思う。子供時代は読書そのものが苦手、嫌い、苦痛だったから、夏休みの宿題ですら、少なくとも中3まで、まともに一冊を読み切ったことがない。遊ぶことが多過ぎたのだ。

 アンネに関して一から書いていたら一冊の本になってしまう。私が刮目したのはコロナ禍の自粛生活が、アンネの時代に比べて、今がどれほど名ばかりの自粛であり、本当は生死と背中合わせなのに、自分も含め、どれだけ現代人が、その想像力に乏しい哀れな生き物なのか、その点を伝えたい。

『アンネと家族、ユダヤ人の隠れ家生活』

 人に見つかってはならない隠れ家には厳しいルールがあった。昼間はできる限り静かに過ごすこと(事務所に人の出入りがあるため)、カーテンは閉めたままにすること、水を流す音が響かないようにすること、トイレの使用は早朝と事務所が閉まる夕方以降にすること、などである。
 食料の調達はミープ・ヒースで、店長がレジスタンス活動家であった食料店から購入していた。食料は屋根裏部屋に貯蔵された。しかし食料の確保はどんどん難しくなり、少なくなっていった。
 特に1944年に入ると食料切符があっても満足に食料を得られなくなった。しかも同年5月25日には野菜の入手経路だった八百屋の主人ファン・フーフェンが2人のユダヤ人を匿っていた罪によりゲシュタポに逮捕されたため、野菜の確保が難しくなった。
 ひもじさに耐えねばならなくなると隠れ家住民たちの心がすさんでけんかになることも多かった。アンネも日記の中で1週間に1種類か2種類の食事しか食べられないことを嘆いている。
 医者にかかれないため、病気になると大変であった。1943年冬にはアンネはインフルエンザにかかり、隠れ家の大人たちが総がかりで必死に看病した。幸い熱は下がり回復したが、悪性の伝染病に襲われたときにはひとたまりもない様子であった。
 また夜には連合軍の空襲の恐怖にさらされることも多くなっていった。もし爆弾が落ちても助けは求められなかった。隠れ家からそう遠くないミュントプレインに対空砲火に撃ち落とされた英軍機が墜落した際には、その轟音と火事で隠れ家がパニックになった。
 電力も制限されていき、ろうそくを明かりの代わりに使用するようになった。また暖房の使用ができなくなると厚手のコートを重ね着したり、ダンスや体操をして体を温めたりしていた。

(1944年7月15日の『アンネの日記』より抜粋)

 どんなに絶望的な状況になっていってもアンネは最後まで希望を捨てなかった。

 本日もついてる 感謝してます。

少数派日記21

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