少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

6231 サイレントK 石井裕也

6/11/21

fa30y(06/11/21) 5:45起床 w 936→ 不測定

 第二回目のアーユルベーダ治療で快眠。足裏の潰瘍が猛スピードで消えてゆく。魔法のようだ。写真でお見せしたいけど、まだグロテなのでやめておきます。

 13:00銀座ハイアットでマカオの件、打ち合わせ。まだ初期段階だけど、こちらも加速。熱量がすごい。
 渋谷、西村パーラーで食事、三度一致。美味しすぎる。

 アーユルベーダの余韻で眠い。笹塚に戻りジム、エアロ50分。漕ぎながら途中で寝そうになる。オリジンで100円オムスビ2個、まいばすけっとで全自由3本買って帰る。

 サイレントK 石井裕也
 
 1981年7月4日、横浜市港南区に生まれる。左投左打。

「ぼくは生まれたときから難聴です。正確には感音性の難聴といい、左耳はほとんど聞こえませんが、右耳は補聴器のおかげで近くの音なら聞くことができます。普段、生活する上で、不便をまったく感じない、と言えばうそになりますが、それほど困ったという経験はありません。
 もちろん、普通の目覚まし時計では起きれませんので、振動型の「目覚まし腕時計」をして寝たこともあります。駅のホームや電車のなかなど雑踏のなかでは、アナウンスを聞き取りにくいのは確かです。
 両親に言わせると「不便を不便と感じていない」のだそうです。それはそうだと思います。物心ついたときから、ずうっとこうやって生活してきているわけですから・・・
サイレントK 沈黙のマウンド (日本文芸社刊より抜粋)』

 石井裕也は先天性の難聴ではあったが、小2年の時に兄が所属するチームで野球を始める。土地がら地元の大洋ホエールズ横浜ベイスターズのファンで友の会にも入っていた。
 横浜商工(2003年に横浜創学館高校に校名変更)時代、3年夏の神奈川県大会で5試合を投げて37個の三振を奪いベスト8に進出。この頃から「サイレントK」と呼ばれ始める。1999年のプロ野球ドラフト会議指名候補にも挙がったが指名はなかった。
 
 尚、同校から現在まで石井を含め9名のプロ選手を輩出している。出世頭は西武からシンシナティ・レッズに移籍した秋山翔吾

 中日ドラゴンズのスカウト部長である中田宗男は「高校の頃から目をつけていたが、ハンデがあるので成人するまで様子を見た」と後に語っている。
 障害者雇用の促進等に関する法律により三菱重工横浜に入社。同期には、後に日本ハムでもチームメイトになる鶴岡慎也がいた。チームは2001年に親会社の方針で企業登録からクラブ登録へ変更になる。このとき三菱重工名古屋への移籍の話もあったが、本人が横浜残留を希望してチームにとどまる。肩を壊し2年間登板できない期間があったがリハビリで治し、基礎トレーニングを積んだ。2003年に新日本石油、2004年には東芝の補強選手としてそれぞれ都市対抗野球大会に出場して経験を積み、チームのエースに成長した。

 2004年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから6巡目で指名され、即戦力左腕として期待をかけられた。プロ入りに関しては家族からの反対もあったが家族を説得して入団する。

 中日時代

 2005年4月13日の広島東洋カープ戦でプロ初登板。初球を前田智徳豊橋市民球場の右翼スタンドに放り込まれた。4日後の4月17日の阪神タイガース戦でプロ入り初勝利を挙げ、その試合で逆転適時打を打った福留孝介にお立ち台に連れて行ってもらい、岩瀬仁紀からウィニングボールを手渡された。
 初めてのヒーローインタビューでは照れて顔を真っ赤にしていたが、たどたどしい言葉が場内に響くたびに拍手が巻き起こった。
 セ・パ交流戦オリックス・バファローズ戦に登板した際、捕手の谷繁元信のサインに首を振って投げた球で三振を奪い、ベンチで谷繁にその新人らしからぬ度胸を褒められた。
 9月24日には読売ジャイアンツ戦でプロ入り初先発し、巨人打線を5回無失点に抑える。4回には自ら適時二塁打を放ち、初先発を白星で飾った。
 2006年は開幕から朝倉健太と共にロングリリーフ要員として開幕を一軍で迎えた。リリーフとしては結果を残したが、先発起用されると打ち込まれることが多く、11試合の登板に留まった。
 2007年は主に先発降板後の2番手として登板。4月下旬から一軍入りするも、5月に入って二軍落ち。9月の優勝争いの時期に一軍へ返り咲くと8試合連続無失点の好投を見せ、7点台だった防御率を2.95まで改善してシーズンを終えた。
 制球に苦しみ、再三走者を出すものの後続を打ち取る、あるいは後を継いだ投手が抑えるというケースが多かった。左打者は29打数2安打と抑えるも、右打者に対しては苦しんだ事がそういった印象を与える事にもなった。
 2008年は開幕を二軍で迎える。6月16日に小池正晃との交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍。地元に戻ると同時に3年越しで憧れの球団に入団することとなった。

 横浜時代

 移籍後すぐ一軍登録され、吉原道臣・寺原隼人につなぐ勝利の方程式の一角を担った。登板数は35試合と過去最高で、高い奪三振率と勝負強い投球術で信頼を勝ち取った。
 2009年には前年度まで抑え投手を務めていた寺原が先発投手に転向するに当たって、石井が抑えに回ることとなった。春季キャンプでは新球フォークボールの習得するなど意欲を見せ、横浜の偵察に来ていた巨人のスコアラーに「制球も良く、自滅することが少ない」と評価され、本人もかつて在籍した中日の岩瀬仁紀のような抑え投手を目指していると語っていた。

 4月12日の東京ヤクルトスワローズ戦でプロ初セーブを挙げ、その後6セーブを挙げるも救援の失敗が続き、山口俊に抑えの座を譲ることになった。二軍での再調整後は一軍の中継ぎに回った。

日本ハム時代

 2010年4月2日に江尻慎太郎との交換トレードで北海道日本ハムファイターズへ移籍。背番号は27。6月14日から一軍に昇格。主に左のワンポイントで登場。一軍合流後は防御率0.93の快投を続けるが、7月18日に怪我で登録抹消。その後復帰するが調子が上がらず、腰痛のため再度登録抹消された。オフに背番号を13に変更。
 2011年は、左のワンポイントリリーフとして首位争いを演じる日本ハム中継ぎ陣を支えた。8月8日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で1球勝利(日本ハム移籍後初勝利)、8月14日の福岡ソフトバンクホークス戦で2球勝利を記録したが、これらを同一月に記録したのはプロ野球史上初。なお、この2試合とも先発投手は斎藤佑樹で、石井は2番手として登板した。

 2012年開幕直後にめまいを発症し、長期にわたり離脱する。詳しい記録は残されていないが、これは耳の疾患によるメニエール症候群と思われる。私自身も酷い経験があるので、立つことすらできない。船酔いが続く状態だ。
 復帰は同年シーズン終盤となったが、約1ヶ月間で17試合に登板し、リリーフ陣の一角としてリーグ優勝に貢献した。
 2013年は序盤から一軍に帯同し、登板51、投球回46、4勝、17ホールドはいずれも自己最多となった。
 2014年は13試合の登板に留まった。
 2015年は開幕から一軍に帯同して2013年と同じ51試合登板ながらワンポイント気味のショートリリーフ登板が多くなり対戦打者151人、投球35イニングで1敗7ホールドで2013年を下回ったものの防御率2.06、15失点と内容は2013年を上回った。
 2016年は故障とコンディション不良のために一軍復帰が7月末まで遅れたが、宮西尚生以外に左の中継ぎがいない事情もあって復帰後は前年同様後半以降のワンポイントリリーフを任され、22試合16.1イニング登板で防御率1.65、失点3、16奪三振という内容で勝敗無しの12ホールドを記録して4年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
 日本シリーズでは2試合に登板して打者4に対して被安打3、失点3を喫したが、チームは10年ぶりの日本一に輝いた。12月2日に右膝半月内側板部分の切除術を受けた。
 2018年は引退試合まで一軍での登板機会はなく、9月22日に球団を通じて現役引退を発表した。9月30日に引退登板のために一軍出場選手登録され、同日の埼玉西武ライオンズ戦(札幌ドーム)において、4対1とリードした7回表2死2塁から3番手として救援登板。バッテリーを組んだのは三菱重工横浜時代からの同僚である鶴岡慎也であった。
 しかも、プロ生活最後の打者は、横浜商工高(後に横浜創学館高)の後輩の秋山翔吾だった。現在、メジャーリーガーの秋山に対して、5球目の141km/hの直球で左飛に打ち取った。8回に登板しなかったため最終登板で通算83個目のホールドを挙げ、通算ホールドポイントもちょうど100に到達して有終の美を飾った。  

 11月12日、日本ハムのチーム統轄本部チームスタッフ(打撃投手)に就任することが発表された。

背番号

 先天性難聴であり、左耳は全く聞こえず、右耳も補聴器でかすかに聴こえる程度である。このハンデを抱えながらプロ野球選手として活躍した石井は、過去に様々なメディアに採り上げられている。
 ハンディキャップがありながら、またマウンド上で補聴器を切り、その静寂の中で三振を奪っていく投球から「サイレントK」と呼ばれている。

 新人時の2005年に、自身のインタビューが高校生向けの英語の教科書に採り上げられている。インタビューで「これまで難聴のハンデを感じたことがほとんどなく、幼い頃からプロ野球選手が夢だった」と語っている。同じプロ野球選手としては前年(2004年)に松井秀喜、過去にはイチローなどのインタビューも掲載されたが、新人選手が採り上げられるのは異例のことだった。

 日本ハム時代、石井は『27』と『13』の背番号をつけた。これは石井のたっての要望で、中日時代、世話になった野球の師匠と言える谷繁と岩瀬の背番号である。

 本日もついてる、感謝してます。

写真は西村フルーツパーラーの三度一致。

少数派日記21

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