少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

6256 スタルヒンの悲劇

6/19/21

fa30y(6/19/21) 9:05起床 w910

 いつも熟睡するタイプですが、今朝は格別でした。脳、眼球、内臓、傷口、全てを癒すのは睡眠しかないのは当然なので、DENBA、ベルギーの医療用枕、そしてマナーズ音響、ファイティンシート、とかなり気を使っています。現在はフランスベッドですが、そろそろパラマウントの医療用に変えようと思っています。

 しかし、問題は地下室。これが致命的なのでしょう。あと、冷暖房なしもきついです。今くらいがちょうどいい季節。これから自宅で熱中症の予備軍です。

 さて、9時間以上寝たおかげで、体調少し回復です。体重も久々の91キロ。また行ったり来たりでしょうが徐々に落ちて、次は89キロ台の目標が見えて来ました。

 本日は成城学園で2件。医療関係の社長とはトンカツ。なんとかブタのヒレ200gと京都の冷やしトマトおでん、初めてでした。
 その後、同じ成城のレトロ喫茶にて、現在進行中のビジネス打ち合わせ。お互いを知らない時代は他人行儀の付き合いでしたが明大の先輩後輩、しかも自宅が近いことも判明して、急に親しくさせてもらっています。

ここから話題変わります。

 
 ヴィクトル・コンスタンチーノヴィチ・スタルヒン(Виктор Константинович Старухин, Viktor Konstantinovič Starukhin)

「まだ生きてるぞ、救急車を早く」
 昭和32年1月12日、午後10時38分。
電車の後方を走っていたグリーン系ツートンカラーの大型外車が、猛スピードで突進してきて、停車中の玉川電車の後部に激突したのである。
 大きな外車が、まるでブリキのオモチャがぐちゃっとつぶれてしまったような形で、鉄の塊みたいな電車の後部にめり込んでいるのだった。

 めちゃくちゃに変わり果てた車内を覗いてみると、座っている運転席の男股の間には、エンジンがくい込み、折れたハンドルは衣服を破って胸に突き刺さっていた。頭はフロントガラスに突っ込み、粉々になったガラスの破片が前頭部を無惨に切り裂き、真っ赤な血がとめどもなく顔全体をつたっていた。

 救急車に乗せられて国立世田谷病院へと向かったその男は、一度も意識が回復しないまま事故から22分後の午後11時、静かに息を引き取った。

 何十分か前に痛ましい事故があったばかりの三宿駅は、既に元の冷静さを取り戻していた。現場検証の警官だけが慌ただしく動き回り、近くを通る人々は、「また事故か」と、たいして気にもとめず家路を急ぐのであった。

 彼らは誰ひとりとして気がづかなかった。大破した車に乗っていたのが誰であったのか。それは二年前、日本初の輝かしい300勝を飾った大投手であることを。戦前、巨人軍の第一期黄金時代を築いた一人であることを。

(ここまで『ロシアから来たエース』300勝投手スタルヒンのもう一つの戦い=ナターシャ・スタルヒン著 PHP より抜粋)

 帝政時代のロシアのニジニ・タギルに、ロマノフ王朝の将校・父コンスタンチンと母エウドキアの一人息子として誕生。1917年のロシア革命の際、一族の中に王党派がいたため、革命政府(共産主義政府)から迫害される。一家は革命軍に追われながらウラル山脈から広大なシベリアを横断し、国境を越えて日本の支配下にあった満州ハルビンまで逃げ延びた。
 1925年、日本に亡命。日本への入国に必要な大金を妻が隠し持っていた宝石でなんとか支払い、北海道の旭川市へ入った。日本では無国籍の「白系ロシア人」となる。
 
 旭川市立日章小学校へ入学。当時は白人が珍しかったこともあり、周囲からはいじめに遭うこともあったものの成績優秀、運動神経も抜群で、徒競走では20m後ろからスタートさせられても一等になるほどだった。大正から昭和にかけて全国的にも少年野球は盛んであり、スタルヒンも学校のチームで活躍した。

 旧制北海道庁旭川中学校(中退=現旭川東高校)。戦時中は須田 博(すた ひろし)に改名。日本プロ野球界初の外国生まれの選手である。

 沢村栄治野口二郎藤本英雄と並ぶプロ野球黎明期の大投手で、NPB史上初の通算300勝を達成、稲尾和久と並ぶシーズン最多勝利記録(42勝)、通算最多完封勝利記録(83完封)を保持している。
 また、史上2人目の投手5冠を達成、史上4人目のシーズン防御率0点台の達成、外国人初のノーヒットノーランを達成、NPB最多記録となる最多勝利を6回獲得している。NPB初のベストナイン(投手部門)も受賞している。 NPB史上初の野球殿堂競技者表彰されている。

1934年18歳で大日本東京野球倶楽部(現巨人に入団。初出場は1936年7月3日、最終出場は1955年10月8日。巨人在籍は1934〜1944年。
太陽ロビンス (1946 - 1947=現ベイスターズ 背番号17)
金星スターズ(現千葉ロッテ)
大映スターズ (1948 - 1953=現千葉ロッテ)
高橋ユニオンズ(現千葉ロッテ)
トンボユニオンズ (1954 - 1955=現千葉ロッテ)

1957年1月12日22時40分頃、都内で行われた中学校の同窓会に出席するため、自宅のある港区南青山から自身の車(1941年式シボレー・スペシャル・デラックス  2ドアクーペ)で世田谷区三宿にある国道246号(玉川通り)を走っていた。しかし、東急玉川線三宿駅付近で、前の車を追い越そうとして二子玉川園行き電車と衝突し死去。40歳没。

友人の証言によれば、スタルヒンは同窓会の会場と逆方向へ車を走らせている上、乗っていた同窓生を車から降ろし、電車で行くように指示しているなどしており、いささか不可解な死として伝わる。その直前には友人が経営するボウリング場の開場式典に出席、飲酒しており、泥酔状態ではなかったが飲酒運転だったという。

スタルヒンの遺体は秋田県横手市雄物川町に位置する、妻の実家である崇念寺に葬られた。亡命から最期まで無国籍だった。

1960年、スタルヒンの功績を称え、その前年に創設された野球殿堂の史上最初の競技者表彰に選出された。旭川市民にとってスタルヒンは伝説的な英雄で、1984年に改修工事が完成した旭川市営球場には愛称「スタルヒン球場」が命名された。球場正面にはスタルヒン銅像が建立されている。

 記者時代に1度、プライベートで2度、スタルヒン球場を訪れたました。スタルヒンの事故にはまだ多くの謎が残されているようです。

 本日もついてる 感謝してます。

写真はランチの、そう思い出した三元豚だ。パンチが効いていました。で、夜はおとなしく、ファミマのお母さん食堂の冷凍ナポリタン250円。これならあと50円出してサイゼのペペロンの粉チーズかけほーだよね。でもサイゼでペペロンだけ、なんて今どき学生でもやらないから、サラダとかつけてしまう。結局割高。そういえば、最近、喫茶店で水に砂糖を入れて飲む学生とか見かけませんが、本当に裕福な時代になったのですね。

少数派日記21

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