6325 追悼・大島康徳さん3
7/8/21
fa30y(7/8/21) 6:54起床 w937
ちょっとまとまったゼニが振り込まれました。と、言っても30代前半にもらっていた新聞社の月給程度。当時は月々8万円の保険料と20万円程度の住宅ローンを払っても、独身だし、まだまだ余裕があったので骨董品を買いまくってました。
打率は分母が増えれば必ず下がるけど、本塁打とヒットの数と白星が減ることはない。若い頃は収入は本塁打と同じで減らないもんだと思っていたけど、実は錯覚で収入は打率と同じで、どんどん落ちていく、という悲しい運命を最近知りました。遅い。
久々の通帳に来た大物も、月末に2号ちゃんの授業料を払えば、再び寂しい秋の海となり、別段、何に使うでもなく、水道代、墓地管理費、実家の修理代、滞納した保険代、税金を支払えば、2号ちゃんの授業料もヤバくなるので、あるうちに先に払っておくとしよう。
『大島康徳さん追悼3』
ガキの頃からの中日ファンだから、ドラゴンズの選手がトレードで他球団に行かされるほど悲しいことはなかった。
愛知県では小中高とシーズン中、午前中の男子の話題はドラゴンズの昨夜のゲームとプロレスのことくらい。まあ、中学まではアイドルの話題もあったけど、小学生のガキまでもが、ストーブシーズンに顔を真っ赤にして激論したのはドラゴンズのトレードだった。
年代、順序は無視して、ドラゴンズを去らねばならなかった記憶の中のヒーローたちを、ざっと羅列する。(敬称略だ)
江藤慎一、田尾安志、島谷金二、稲葉光雄、平野謙、宇野勝、井端弘和、尾上旭、上川誠二、中尾孝義、中村武志、山崎武司、宮下昌己、与田剛、矢野輝弘、種田仁、梅田邦三(渋い)、田野倉利男、藤王康晴、中田賢一、鳥越裕介、野口茂樹、平沼定晴、堂上剛裕、山田喜久夫、藤波行雄(未遂)、そして牛島和彦と大島康徳。
もちろん、この中にはFAや仕方ないトレードもあったけど、各種しがらみもある。メジャーのように個人主義ではなく、個人を含むチームそのものが土着してる日本のプロ野球において、オラが村の個々の選手は、我が息子であり、カレシであり、アニキであり、地元のゴレンジャー的なヒーローなのである。
球団の都合で、トレードされてなるものか💢。藤波さんの時も牛島さんの時も、新聞不買運動が起きたけど、焼石に水でした。
昭和61年、10月29日、若干39歳で星野仙一さんがドラゴンズの新監督に就任した。勝つためならなんだってやる。負けた試合に土砂降りのグランドでパンツ一丁で延々とグランドの神様に土下座して詫びを入れて来た島岡学校の若頭だ。勝つために必要なら非情にもなる。
その年のストーブリーグ。ロッテの3冠王落合奪りで、星野中日は巨人としのぎを削った。連日のスポーツマスコミはヒートアップ。ロッテは「うちは4番を出すのだから、あんたんとこはエースを出しゃあ」と小松辰雄を要求してきた。
難題である。もちろん小松の実力もそうだが、石川県星稜高校出身の小松は中日新聞にとって北陸新聞戦争のなくてはならない広告塔である。
信濃毎日新聞に加えて、中部読売が、北陸3県のマーケットを狙っている。限られたパイ(読者)の陣地取りの広告が小松辰雄なのである。勝っても小松、負けても小松、北陸中日新聞は小松辰雄で売れていた。出せるわけがない。
その騒動の中、富士山の裾野、朝霧高原で12球団主催の球団対抗ゴルフ、いわゆるオフの営業でクラブを振っていたドラゴンズの選手がいた。
かつて交通事故を起こして以来、なるべく、自らハンドルを握らないようにした大島が、一緒にコンペに参加した11年後輩の牛島に送迎を頼んだのだ。
年齢差もある、それに投手と野手で交流はない。牛島にしてみれば、チームの顔である大島だ、緊張しかなかった、という。
御殿場あたりから名古屋まで3時間か4時間か。二人は何を話したか、双方に記憶はない、という。ただ、共通して覚えていることがひとつだけあった。トレードの話である。
ロッテの要求は小松であり、牛島にしてみれば他人事であったはずだ。しかし、牛島も当時25歳、高卒一、二年生とは違い、世の中の事情、小松〜北陸〜中日新聞の構図くらいは理解していた。スポーツ紙には牛島も名前も候補として上がっていた。もちろん球団からの打診はない。
これが虫の知らせというやつだろうか、長いような短い、大島とのドライブの終焉に牛島はこう切り出した。
「トレードの要請が来たら、どうしたらいいですかね」
「おまえ、いくつになった?」
「25です」
「だったら行けよ。25だったら、どこに行ったって、野球やらせてもらえるだけ幸せやぞ」
富士の裾野から、名古屋に近づくたびに、牛島の第六感は、他人事だったトレードが自分ごととなることを予感したのかもしれない。大島を名古屋の自宅に送ると、今度は名古屋から離れるためか、岐阜県の下呂温泉へとクルマを走らせた。湯治の目的である。
まさにその日のことだった。牛島のクルマの電話が鳴った。
当時、移動電話が出だした時期。選手たちは自家用車に移動電話を搭載して、束の間の上級国民を味わった。
「球団からだと思って出ませんでした。トレード通告受けたら受けないかんでしょ」
一日だったか二日だったか、牛島はトレードなら野球を辞める覚悟で逃避した。スポーツマスコミは牛島の行方不明を大きく報じた。
二日後深夜、観念した牛島は自らの運転で星野邸に出頭した。
星野は牛島に白紙の小切手を渡し「好きな金額を書いていいぞ」と言った。
関西で育ち、天下の浪商で甲子園のスーパースターがタテジマではなく「小さい頃からドラゴンズが好きだった」なんて、今聞いても涙が出る。
その牛島が白い小切手に納得するはずもない。
「すまん、俺のためにトレードに応じてくれ」
男・星野仙一が25歳のために頭を下げた。
「わかりました」
牛島は白い紙を受け取らず、牛島は星野邸を後にした。
あと1週間もすれば歳が明ける12月23日、中日球団は、牛島和彦、桑田茂、上川誠二、平沼定晴と落合博満、4対1の世紀のトレードを発表した。
後日談。牛島がトレードを受領した一番大きな要因は、星野さんの頼みでもあったが、「あのゴルフの帰り道、大島さんがくれたあの一言が決め手でした。もし、トレードなら辞めるつもりだったし、拒否すれば辞めるしかなかった状態で『野球やらせてもらえるだけで幸せやぞ』って。背中を押してもらったような気がして・・・」
通算77セーブ、守護神。ファンの間では「神様、仏様、牛島様」である。
時効だから告白するが、東京中日スポーツ内の電話から名古屋中日新聞本社の販売局に「牛島出すなら、おまえんとこの新聞もう買わへんぞ」と不買運動したのは私です。バレちゃいないと思うけど。
本日もついてる感謝してます。
少数派日記21