少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

1703 八億四千の妄念

「一人一日のうちに八億四千の念あり。念々妄念と悟って離念し大吉」
本日03/17、東京新聞中日の「松風庵主」のきょうの運勢・・・から。


妄念とはすなわち、迷いの心、迷妄の執念。
迷妄とはすなわち、実態のないものを真実のように思い込むこと。
これが念々(刹那刹那)起こり、一日に八億四千回。無駄な計算をしてみた。八億四千回を24時間で割ってみると、一秒間に9259・305・・・回の妄念、すなわち心の迷い、実態のないことに、寝てる時間も思い悩むことになる。


それほど、人間は思い悩む生物の例えだとしても、含蓄のある言葉だと思う。
昨夜、バラエティー番組にて、放火で家屋敷から想い出の品々まで、すべてを失った丸焼けのジョーこと、俳優の宍戸錠さんが、出演されていました。
「モノに対する執着などない。どうせ生きているんだから、落ち込んで生きるより、楽しく前向きに生きていた方がいいに決まってるじゃん。今、どこに住んでいるかって? コレのとこだよコレ(と小指を立て)、いま、気になってる娘(こ)が二人いるんだけど、問題は二人ともウチから遠いんだよな・・・」
80の齢をすぎ、かつ、家を丸焼けにされたのに、やせ我慢だとしてもカッコいい。さらに、真っ先に見舞金を持って駆け付けたという渡哲也さんのエピソードもかっこいい。
「彼、石原プロからです・・・」って(見舞金を)おいてったけど、彼はすでに石原プロを辞めてるるんだよな・・・と、渡さんの自腹だったという話。裕次郎さんの顔まで立てるとはカッコ良すぎだ。


「煩悩」という言葉は馴染み深い。
されど、あらためて辞書(広辞苑)をひも解いてみた。
曰く、衆生の心身をわずらわし悩ませる一切の妄念・・・とある。
ここでも「妄念」という言葉が登場するのに注目されたい。
煩悩(妄念)の種類は多く、一般的には「百八つの煩悩」とされているが、広辞苑によると「八万四千の煩悩」もあると記されている。
それが松風庵主によると、日に「八億四千」毎秒9259もの煩悩妄念が訪れ、すなわち、永遠に続くそうである。
そして、煩悩を断じた境地が悟りである・・・と結んである。


そして、悟りを得た者を「仏」と呼ぶ。
で、あるならば、人間は一生に一度だけ「仏」になれる日が必ずやってくる。
そう、人が亡くなれば、人が亡き者を「仏」と呼ぶ。
人は、死ねば、あらゆる苦痛、すなわち煩悩や妄念から解放される・・・と伝えられるが、はたして本当だろうか? 死んでみなければ誰にもわからない。では、浄土ヶ浜の老婆はどうだろうか・・・? 無念や未練を残してこの世を去らねばならかなった人も皆無ではないはず、そして明日は我が身。


すなわち、人間は生あるうちに、煩悩、妄念から離念して、仏になる準備をするに越したことはない。
かつては強欲な蒐集家(コレクター)で、目に映るコレクトアイテムのすべてを欲した安藤総理も、映画「シンドラーのリスト」のクライマックスシーンで開眼し、物欲の世界から解脱できたような気がしました。


さりとて、まだまだ、丸焼けのジョーの境地には至らずですが、特に欲しいものはありません。
小生「輪廻転生」の信仰者であるゆえ、今世で死して、再び三界六道すなわち、三界(欲界、色界、無色界)六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)へと帰し、また生誕するのみ。六道四生(六道における衆生の生まれ変わり、すなわち胎・卵・湿・化の四生)の流転を慈しむのみ。


霊波之光、あるいはキリスト教において「輪廻転生」は存在しない・・・という理念に対し、それは、承諾できぬ教えとして、自身の病苦や日常の日々を振り返るにつれ、神に護られていることを確信し、迷いが無くなったことに、大意を感じております。
つまり、迷ったところで、どちらに転んだとして、それはそれで自身にとっては、結果としてよりベターな選択であるという確信がある故、小事の失敗や、思い通りにならない他力に対しての、自己への不利益(他者や弱者に対対しての不利益な行為は別)などは、寛大な気持ちになれるようになりました。


されど、持つべき「怒り」と「抵抗」は、個人や自国、他国の国政に対しても必要だと思います。たとえば、不当な利益を個人や企業や国が独占し、その陰で多くの民衆(衆生)を悲劇に追い込む行為。たとえば原発原発そのものが悪いのではなく、最初から、事故が起これば人命すら脅かす危険性を承知していながら、一部の個人、企業のみが利権をむさぼる構図、そして天下りどもという国家がそれに加担し、いま現在も、その構図が継続しているという事実。人は、社会は、正義や綺麗ごとのみでは生きられない。されど、あまりにも露骨すぎる。


本日、松風庵主の言葉を見て、そんな風に思いました。