少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

4595 七夕フライト1986

7/9/19

FBFのみなさま、おはようございます。
安藤の私的ノスタルジーです。長文につきお暇な方限定です。
特に深い意味はありませんので。

「七夕フライト」

今から33年前の7月7日、七夕様。
私は夕暮れの小牧空港を立ち、最終の札幌便に搭乗していた。
前年の1985年、JAL123便の御巣鷹山墜落事故の煽りで、機内はほぼ貸切状態。乗客より乗務員の方が多かったことを鮮明に覚えている。
チーフパーサーが「織姫と彦星」「一年に一度のロマン」とか短い物語をアナウンスをする。
私は窓際に座り、パーサーの声に耳を傾け、ふたつの星を雲の上に探した。

入社一年目の駆け出し記者。右も左も模索の7月の上空。
ほんの一年前の同じ時期は後楽園球場のレフトスタンドではちょっとした顔役だった。
それも品行のよろしくないドラゴンズの応援団長。
喧嘩三昧と酒に浸る日々。バイトで食費と家賃、酒代を繋ぐその日暮らし。
巣鴨の飲み屋のネーちゃんに入れ込んで、光熱費を滞納して電気も水道も止められ暗闇で生活する荒んだ素浪人。

暴れて何度も後楽園は出禁になって、富坂署の常連だけど前科はない。
多くのファンが支えてくれた。後援会までこしらえてもらった。
ほとんどの会員は小学生男児だったけど、それでもみんな小遣いの中から年間会費1000円を納めてくれた。東中に駄文を売って小遣い稼ぎ(貴重な生活費だけど)しては、また書いた。
結局それが入社に繋がり、いっぱしの肩書きをいただいた。

七夕フライトは快適だったけど、ひどく疲れていた。
父の突然の死で、気は張っていたけど、肉体は疲労困憊だった。ほとんど寝ていない。
親父が死んで驚いたのは、その葬儀のでかさだった。
現役だったので、社葬にしてくれた。
全ての手間は会社がやってくれた。私は喪主の母の代理で謝辞を述べるだけだった。
姉はただただ泣いていた。

もう一つ驚いたのは、おびただしい数の献花の中心に、「株式会社 中日新聞」「株式会社 ヤクルトスワローズ」「中日ドラゴンズ選手会一同」「ヤクルトスワローズ選手会一同」「星野仙一」「木俣達彦」なる花段が中央に飾られていた。まったく予想だにしないサプライズだった。

しかも、たまたまスワローズの名古屋遠征と重なり、ヤクルト球団の相馬社長、田口球団代表、東京からわざわざ、東京中日スポーツの高田総局長、地元の大スター木俣達彦さんが弔問に、安城の田舎まで足を運んでくださった。感謝しかない。

一年前の自分は、巣鴨のパブに入り浸る世捨て人。汽車賃と松屋の朝食白米50円だけポケットに残して最後の一滴まで飲み干して眩しい太陽を手で翳して帰る日陰者。就活に勤しむ同級生を、違う世界の人たちのように眺めていた。

そんなことを思うと、死んでしまったけど、親父に、ほんの少しだけこれまでの借りを返せたような気がした。不肖の世捨て人も、球団から献花を贈られる幸運に恵まれた。

父の葬儀を終え、担当のスワローズが名古屋遠征から、札幌円山球場での巨人戦が組まれ、1日遅れでその後を追う。身内の葬祭は確か一週間の有給があるが、通夜、葬儀、告別式、初七日を5日間で終えて、チームを追う。七夕フライトはそのためだった。

今年5月、母親の雑用で安城に戻ると、父の葬儀のご記帳やらご香典の記録がダンボールの中から出てきた。記憶にはあまりなかったけど、あまり交流のないドラゴンズ仲間が東京から駆けつけてくれてたり、お会いした記憶もないけど手紙のやりとりをしていた方、顔を思い出すのに少し時間を要した方たちより香典をいただいていた。きちんとお礼はできていたのだろうか。今、思い起こして少し心細くなった。

笹の葉さ〜らさら。

雲の上に探していた星は織姫でも彦星でもない。
星に行く途中の親父が、まだその辺にいるんじゃないかと思って窓にへばりついていた。
もう少し、いろいろ聞きたいことがあった。
借りはほとんど返せていないし。

翌日の巨人vsヤクルト戦。
ヤクルトの1番打者がご当地選手のレフト・若松勉だった以外、先発投手も勝敗もまったく覚えていない。

本日もついてる、感謝してます。

(s4705 7/9/19 佼成hosp 516c にて)

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